世界で初めて発明を法的に保護した国は?

世界で初めて発明を法的に保護した国は?

⓵世界で初めて発明を法的に保護した国はイタリアのヴェネチアでした。それまでの紀元前500ころ、ギリシャの植民地シュバリにおいて料理のレシピに1年限りの独占権が認められたという記録があました。これはレシピという知的産物を保護した世界初に事例であるとされています。この当時から知的な産物に保護を求めようとする機運があったと考えられます。特許制度として法的に保護されものではありませんでした。シュバリスは奇しくもイタリア南部に位置していました。

②イタリアのヴェネチアには東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に隣接し、ヴェネチアはビザンチン帝国の庇護の下、地中海貿易で商都てとし繁栄しました。このビザンチン帝国も15世紀には南部のオスマントルコによって滅ぼされ、多くのビザンチンの古代ギリシャ、ローマに関する学者がイタリアのヴェネチアやフィレンツェなどに 移住し、これらの地域を中心に古代ギリシャ、ローマの人文主義を普及させ、人権復興運動、ルネサンスをヴェネチアやフィレンツェに齎しました。

③14世紀、15世紀にはルネサンスの全盛期を迎えました。フィレンツェとヴェネチアは互いに地理的にも近くライバル関係にあり、二国間の紛争もありましたが、それぞれ地中海交易が盛んで産業が発展しました。

④更に、イタリアでは、海外が技術者などを招き、国内産業を育成するために、1474年に世界で初めて特許制度を創設し、発明を保護、奨励しました。当時は、領邦の君主なの特権でもって発明を保護する制度はあり、法律的に発明を保護するものではありませんでした。例えば、ルネサンス期のフィレンツェではフィリッポ・ブルネレスキーの発明に保護が与えられていますが、これはギルドにおける技術コンクールに入賞したようなものでした。それは1421年のことでした。

フィレンツェは発明を単発的に保護

⓵フィレンツェにおける発明の保護は必ずしも今で云う特許に類するものではありませんでした。ブルネレスキーの発明は、特許という形で保護された訳ではありません。フィレンツェ当局の⼤聖堂造営局がサンタ‧マリーア‧デル‧フオーレ⼤聖堂のクーポラ(円蓋)の設計競技(コンペ)を実施し、その時ブルネレスキーの発明として提出された模型や図面による施工案が優秀であるとして採用されたものです。現在でも普通に実施されているコンクールの当選者を褒賞する制度と何ら変わるのではありません。

③ブルネレスキーの発明に係る大理石の運搬船は、第大聖堂の修理に向けてピサからフィレンツェに向けたアルノ川を遡上し、ドームまで大理石を搬送する平底の運搬船でした。この運搬船は如何なる河川や海であっても自由に利用でき優れものでした。この平底の大理石運搬船に対しては第三者による模倣は一切禁止され、また、3年間の排他権がされましたが、単発的なものでした

。ブルネレスキーは、運搬船の他、クレーン、円蓋の周囲を連結するチェーンなどの作業機械、⾜場、現場の施工法などの発明についても特許ではなく、市から免税や土地の貸与、報奨金などが複数回に渡って特典が与えられました。

④それぞれの発明は公共機関によって単発的に行われる競争入札のような手続で保護されたにすぎませんでした。従って、ブルネレスキーの発明は今日の特許制度のように法的に発明を保護奨励するものではありませんでした。このようにフィレンツェでは平底の大理石運搬船などのように具体的な物自体を保護し、現在の発明のような抽象的なアイデアを保護するものではありませんでした。今の特許制度に近い制度は、1474年のヴェネチアの発明者条例を待つことになります。

ヴェネチアは世界初の特許制度によって発明を保護

 ⓵フィレンツェと同時期に繁栄したのがヴェネチアでした。ヴェネチアは、第4次十字軍(1202-1204)の派遣時に兵士、物資などの搬送を担当し、海運力を高めると共に海軍を増強しました。これを機にヴェネチアは、ビザンチン帝国の庇護の下に、アドリア海、イオニア海など東地中海を中心とした東方貿易で綿、絹、香辛料などの奢侈品を扱って莫大な利益を得ました。ヴェネチアは同時に人的交流も盛んに行って方々から外国人の職人や技術者を招聘しました。

 ②ヴェネチアは資源がなく、外国から資源を輸入し、加工品で内需を満たすと共に加工品を輸出する必要があり、国内産業振興のためにも外国からの新技術の導入が必要になりました。そこで、ヴェネチアでは海外からも新たな技術を導入する手段とし世界初の特許制度として発明者条例が1474年に成文化されました。幸い、この頃には後述しますように1455年に印刷システムが発明され、ヴェネチアが印刷センターになるほどに印刷物が出回り、市民の識字率も高くなりました。従って、発明者条例を利用することができる環境が整い、発明を法的に保護、奨励し、もって産業を保護し、産業発達を促進する環境ができました。

③この発明者条例では、発明に内容を記載した書面を元首であるドージェに提出し、元老院の評議会において審査されました。この際、発明には新規と有用性が求められましたが、この当時には今で云うところの進歩性という概念はありませんでした。イギリスの独占条例のようにその発明が真正且つ最初の発明であるかは必要とされませんでした。この意味ではイギリスの独占条令の方が近代特許制度の嚆矢であるとも云えます。審査に通れば国内で10年間独占排他的に実施する権限が付与され、独占排他権を侵害した者には所定の罰金、刑罰が科される罰則規定が設けられていました。特許権侵害への罰則規定は今までにない全く新しい法制度で、近代の特許法に近い法律であると云われる所以です。ヴェネチアの特許と技術導入については田中一郎著④ℬ「ヴェネツィア特許法と技術導入」に詳述されています。

④この発明者条例では、例えば1474年から1550年の間に108件の特許が付与されました。そのうち、55件が掘削機、5件が揚水機に関するものであり、ヴェネチアの地政学上必要とされた基本的な技術です。この点ではネーデルラントでも同じことが云えます。生活に関する製粉機に関する発明も55件でありました。1594年に出願された、偉大な天文学者ガリレオ・ガリレイによる、たった1頭の馬を動力源とする灌漑用の揚水機に関する発明もあります。

⑤ベネチア共和国では、ガラス製造業の他絹織物業や毛織物業が盛んでした。絹織物業や毛織物業の技術はイタリアから隣国のフランスにも職人らを介して伝わりました。特に、ヴェネチアにはヴェネチア鏡やステンドグラスなど優れた技術があり、これらの技術については高度の秘密性が保持されていました。ガラス製造技術は1665年までノウハウとして秘密裏に保持され、その秘密を保持するためにガラス職人がムラーノ島の一か所に集められ、秘密性が外部へ拡散しないように秘密主義に徹していました。秘密を洩らした者には罰則が科され、その罪は家族にまで及んだと云われています。

 参考文献:Willian J. Flynn “Ptents Since the Renaissance” pp8ー10(2006)。

 

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