独占条例(Statute of Monopolies)後のイギリスの国内体制の激変

独占条例(Statute of Monopolies)後のイギリスの国内体制の激変

 ⓵ジェームス1世の治世下の1624年に独占条例が制定された後、ジェームズ1世は死去し、その後清教徒革命(1649)によりチャールズ1世が処刑され、王制が廃止され、議会派のクロムウェルを護国卿とする共和制になって独占条例が一旦廃止されました。

 ②しかしながら、その後のクロムウェルによる圧政で国内は疲弊し、王政復古(1690)により共和制が崩壊しチャールズ2世が復位し、独占条例などの法律が回復しました。また、チャールズ2世の勅許により1662年ににはロンドン王立協会が創設され、技術愛好家が科学技術の実証事件などを行い、イギリスでの科学技術の定着に尽力しました。

 ③それでも、イギリスは、18世紀末までの100年ほどの期間、これといった技術開発もなく、独占条例が殆ど顧みられることもなく、特許出願されることも稀で、技術的に低調な時代が続きました。

特許明細書を巡って

 ⓵独占条例の制定時には、特許出願時には必ずしも特許明細書を必要としませんでし、明細書を巡って18世紀末には様々な裁判が提起されました、代表的な裁判例として、1778年にはLiardet vs Johnson事件、1787年にはTurner vs Winter事件などがありました。これらの事件では特許を得るためには発明の内容を十分に説明した明細書を提出することが必要であることが初めて明確にされました。

 ②前者の事件では特許出願には明細書を添付しなくてはならないことが後者の事件では明細書における発明の説明が不’十分で公衆に誤解を与え、発明を実施できないな場合には特許が無効になることが示されました。また、発明の特許手続が極めて煩雑で手数料も極めて高くなり、一般には利用し難いものでした。

 ③この時代の特許手続については、チャールズ・ディケンズが小説「a poor man’ tales of the patent」おいて、手続の煩雑さと高額な手数料を巡り痛烈に批判されています。イングランドでは一般的な特許取得手続に300ポンド以上のコストが掛かったそうです。

1852年特許法改正により近代特許法へ

 ⓵従来のイギリスの特許法(独占条例)はイングランドとウェールズでのみ有効でしたが、この改正時点からスコットランド及びアイルランドをも含む領域でも有効になりました。特許出願は特許が付与されるまでに願書が公表され、第三者からに異議の申し立てる機会が与えられました。この異議申し立てにより真正で最初の発明を判別することができ、登録を取り消すことができました。

 ②この改正でいわゆる政府が一般公衆に周知させる公示主義が採用されました。改正法でも特許の恩典主義であることに変わりはありませんでした。この手続面以外は従前の独占条例と実質的には同一でありました。その後も手続面で複数回、1883年、1907年に全面的に改正されましたが、いずれにおいても特許法の基本に変更はありませんでした。

公示主義

 ⓵独占条例6項では真正で最初の発明が保護されると規定されていますが、真正で最初の発明が如何なる形態で提示をされるかは具体的に規定さていませんでした。現在では通常、発明は明細書において言葉で表現され、場合によっては図面やひな形を添付します。

 ②しかし、当時は、上述のように特許を受けようとする真正且つ最初の発明でことが請願書に添付される書面において申請すればよく、発明を具体的に説明する明細書までは要求されておらず、発明の開示基準も明確ではありませんでした。明細書の提出義務もありませんでした。

 ③従って、発明の公示には発明の概要、存続期間、登録料金などが記載されました。発明の内容を具体的に開示した明細書は18世紀後半になって書式が問題になりました

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